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蘆塚 忠右衛門(あしづか ちゅうえもん、天正12年(1583年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、キリシタン。諱は貞家〔『寛永平塞録』『寛永治迹』より。〕。有馬晴信の家臣。後に、島原の乱の一揆勢に加わり、軍師役を務めた。父は蘆塚忠右衛門〔蘆塚忠右衛門 (子)を郡宗保の長子とする史料が、『天草軍記』など多数ある。〕。弟に忠太夫ら、子に左内〔『天草軍記』(天草騒動)より。〕がいる。 ==略歴== 父・忠右衛門はキリシタン大名・小西行長の家臣で、宇土城代であった。田丸具房(常山)が著した軍記物語『天草騒動』(1692年)によると、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参戦したが敗走し、その際森宗意軒と共に行長の遺志を伝える役目を命じられたという〔。 小西氏改易後は天草に潜伏し、後にキリシタン大名・有馬晴信の家臣となって島原に移住した。晴信の死後、浪人となり、大坂の陣が勃発すると豊臣方に組して、父たちと共に戦った。 寛永14年(1637年)の島原の乱では、既に50を過ぎていたが、請われて軍師として入城した。 原城落城時に戦死した〔『戸田家記録』には本丸で益田好次と刺し違えたとあるが、『天草軍記』(天草騒動)にはその最期が詳細に描かれている。〕。『天草軍記』によると、蘆塚は手勢40でまず黒田忠之勢に突撃してこれを崩し、島原藩主・松倉勝家か幕府軍上使・松平信綱(伊豆守)の首を取って冥土の道連れにしようと敵本陣に突入を試みた。死にもの狂いで戦ったが、伊豆守の家老・深井藤右衛門が鉄砲で突撃を阻止させて防戦。そこに立花宗茂が上使の救援に駆けつけてきた。小勢の蘆塚隊は一人残らず討ち取られ、蘆塚忠右衛門は立花家の武者を捕まえて小脇に抱えて、「誠の武士の最期を見よ」と言って崖から身を投じた。享年は61という。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蘆塚忠右衛門 (子)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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